西宮神社]]>
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西宮神社
所在地 兵庫県西宮市社家町1番17号
位置 北緯34度44分09秒
東経135度20分04秒
主祭神 西宮大神(蛭子命)
社格等 県社・別表神社
例祭 9月22日
主な神事 十日戎
おこしや祭
誓文祭
表・話・編・歴
西宮神社(にしのみやじんじゃ)は、兵庫県西宮市にある神社である。日本に約3500社ある、えびす神社の総本社である。地元では「西宮のえべっさん」と呼ばれる。
目次 [非表示]
1 祭神
2 歴史
3 十日えびす
3.1 日程
3.2 福男選び
3.3 招福大まぐろ奉納
4 文化財
5 交通
6 関連項目
7 外部リンク
[編集] 祭神
第一殿に「西宮大神」として蛭児命を祀り主祭神とする。第二殿に天照大御神と大国主大神、第三殿に須佐之男大神を祀る。
祭神の蛭児命は伊弉諾岐命と伊弉諾美命との間に生まれた最初の子である。しかし不具であったため葦の舟に入れて流され、子の数には数えられなかった。ここまでは記紀神話に書かれている内容であり、その後の蛭児命がどうなったかは書かれていない。当社の社伝では、蛭児命は西宮に漂着し、「夷三郎殿」と称されて海を司る神として祀られたという。
[編集] 歴史
創建時期は不明であるが、平安時代には「えびす社」として当地で既に篤く信仰されていたことが記録に残っている。
西宮神社は、その成立において「南宮社」と呼ばれていたと言う記録がある。これは市内中部の、廣田神社を本宮と見て、その南に成立する神社と捉えることができる。西宮神社は長らく廣田神社の摂社であった。廣田神社との関係から、神祇伯の白川伯王家との関係も深く、たびたびその参詣を受けていた。また、梁塵秘抄には、諏訪大社、南宮大社、敢国神社と共に、廣田神社の末社が南宮として記載されている。現在も、祭神を豊玉姫として廣田神社摂社・南宮神社が境内に鎮座する。なお、「西宮」という名称は本来は廣田神社を指すものであったが、戎神信仰が盛んになるとともに、廣田神社摂社であった当社の方が「西宮」と呼ばれるようになった。
神人として人形繰りの芸能集団「傀儡師」が境内の北隣に居住しており、全国を巡回し、えびす神の人形繰りを通してその神徳を説いたことにより、えびす信仰が全国に広まった。境内に祀られる百太夫神は傀儡師の神である。中世に商業機構が発展すると、海・漁業の神としてだけでなく、商売の神としても信仰されるようになった。江戸時代には、徳川家綱の寄進により本殿を再建し、また、全国に頒布していたえびす神の神像札の版権を幕府から得、隆盛した。
境内末社の式内社・大国主西神社は延喜式神名帳では菟原郡となっており、西宮神社がある武庫郡とは一致しない。現在のえびす神は大国主であったという説もあったことから、明治3年、『摂津志』などの記載より現在の西宮神社が式内・大国主西神社であるとして「大国主西神社」に改称し、明治7年6月、大国主西神社として県社に列格した。そのころ、末社・大己貴社が大国主西神社であるとする説が挙がり、同年8月に一旦大国主西神社(現 西宮神社)の県社指定を取り消した上で、同年11月、大国主西神社を西宮神社に、大己貴社を大国主西神社に改称して、共に県社に指定した。
なお、元の末社・大己貴社(現 大国主西神社)にある場所には元は本地阿弥陀堂があったが、享和2年(1802年)に取り壊された。そして、元は不動堂と称していた建物が享保20年(1735年)に大己貴神・少彦名神を祀る大己貴社に改められ、文化元年(1804年)に本地阿弥陀堂の跡の現在地に移されたものである。よって本来の式内・大国主西神社ではないが、「大国主西神社の所在が判明するまで」ということで、その名前をつけることになったものである。
[編集] 十日えびす
毎年1月10日前後の3日間で行われる十日えびす(戎)では、開門神事福男選び、大マグロの奉納、有馬温泉献湯式などの行事とともに、たくさんの屋台が軒を連ね、開催三日間で百万人を超える参拝者で賑わう。
[編集] 日程
1月9日 - 宵えびす 有馬温泉献湯式 宵宮祭
1月10日 - 本えびす 十日えびす大祭 開門神事福男選び
1月11日 - 残り福
[編集] 福男選び
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正式には「十日戎開門神事福男選び」と呼ばれる。
西宮神社周辺では古くから1月9日夜「忌(居)篭り」と呼ばれる家から外出してはならない風習(その間に"えべっさん"が市中を廻られる)がある。神社では1月10日午前4時から十日えびす大祭が執り行われ午前6時ごろに終わり、それと同時に門が開かれる。その忌篭りの状態が解かれた後、氏子たちが一斉に家から神社まで駆け抜ける風習がルーツとされる。神社側の記録によれば、1940年(昭和15年)以前のはっきりとした記録は定かでなく、郷土史研究家等が収集した資料によっても大正時代以前の記録はほとんど分からない。また、なぜ1940年から記録が残っているかについては、当時の新聞の戦意高揚記事とかけ合わせて、その年の一番福に褒美としてお守りを授けたからではないかとしている。
当日は未明から多数の人が表大門の前に集合し、午前6時の開門とともに230メートル先の本殿を目指して駆け出す。そして3着までにゴールした人間(待ち構えている神主に抱きつくことが条件になる)が、その年の福男となる。尚、一般に福男と言われているが、老若男女いずれの人も走ることが出来る。しかし、女性の一番福は未だに出現していない。参加者は毎年2000人程に及ぶ。
南宮神社前のカーブコースには3箇所のカーブと本殿に駆け上がる際の木の坂が障害物のように立ちはだかり、毎年のテレビ取材ではこの4箇所を中心に大小のカメラを設置されている。猛スピードで駆け抜けるので制御がままならず、下が石畳なのでスピードがつきすぎカーブを曲がりきれず滑って転倒したり、最後の坂で足が絡まって転倒する者もおり、うまく制御出来た者が一番福〜三番福の栄誉を獲得できるといえる。
1946年(昭和21年)から数年間は、前年に神社が空襲で焼失したため中断。1966年(昭和41年)と1967年(昭和42年)は、1965年(昭和40年)に場所取りを巡って乱闘が発生したことに伴い自粛。
2004年(平成16年)には大阪市中央消防署の署員が一番福となったが、後日この男性が同僚数名と組み、他の参加者を妨害したことがマスコミやネット上で話題になり、結局男性は一番福を返上するという騒動になった。
なお、このときの二番福だった男性は2008年(平成20年)に一番福になった。
そのため、2005年(平成17年)以降は事前の場所取りを禁止し、神事の為閉門される10日午前0時に集合の参加者でくじを行い(開門神事保存会主催)、前列108人(12人9列)のスタート位置を決める方式を取るようになった。2007年(平成19年)にはくじ引きの当選者の顔写真を撮影して開門前に照合するという一部報道もあったが、神事であるので実際には行われなかった。
これまでも福男選びは、新聞・スポーツ新聞をはじめ、1997年(平成9年)に「おはようクジラ」(TBS)で実況生中継されたり、「ブロードキャスター」で特集を組まれるなどニュースになっていたが、扱いはそれほど大きくなかった。しかしこの騒動が大きく取り上げられたことから、前述のように規定改正が行なわれた2006年(平成18年)以降は、新春恒例のニュースとして、各テレビ局(主にキー局ならびに関西地方局)の報道・情報番組でも大きく取り上げられるようになり、中には福男選びの実況生中継を行なう朝の情報番組(「みのもんたの朝ズバッ!」、「やじうまプラス」、「おはようコールABC」など)もあった。
三番福までの賞品は以下のとおり。
一番福:認定書、木彫りのえびす様(大)・副賞えべっさんのお米1俵・日本酒菰樽、特製法被
二番福:認定書、木彫りのえびす様(小)・副賞えべっさんのお米1俵、特製法被
三番福:認定書、黄金のえびす様大黒様・副賞八喜鯛、特製法被
2008年(平成20年)からは新たな賞品として福男法被が加えられた。 また開門前に待っている先着2000名には、開門神事参拝証が授与される。
[編集] 招福大まぐろ奉納
神戸市東部卸売市場(神戸市東部水産物卸売協同組合、大水、神港魚類)が大漁を願い、1970年(昭和45年)から毎年1月8日に開催される「招福大まぐろ奉納式」で大マグロ(体長約3メートル、重量約300?、刺身約1500人分)を奉納している。十日えびすの期間中は「招福マグロ」として拝殿に飾られ、多くの参拝者が凍ったマグロの頭や背中などに硬貨を貼り付け、うまく張り付けばお金が身に付くということで、商売繁盛や金運などの願いを掛けて参拝している。なお、十日えびす終了後は解体され、関係者の手で刺身などにして食されている。
[編集] 文化財
重要文化財(国指定)
大練塀 - 室町時代初期再建、全長247m、日本最古の築地塀、日本三練塀の一つ
表大門 - 安土桃山時代(慶長9年)再建
県指定文化財
社叢
市指定文化財
銅鐘
箱根ターンパイク
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箱根ターンパイク株式会社
Hakone Turnpike Limited. 種類 株式会社
市場情報 非上場
本社所在地 神奈川県小田原市早川2-22-1
業種
事業内容 自動車道・関連施設の管理・運営等
代表者 代表取締役 橋本武寛
資本金 3700万円
外部リンク http://www.htpl.co.jp/
箱根ターンパイク御所ノ入り駐車場から撮影箱根ターンパイク(はこねターンパイク)は、神奈川県小田原市から箱根町を経由し、同県湯河原町に至る延長15km782mの観光有料道路(一般自動車道)で、箱根ターンパイク株式会社(HTPL)が保有・運営する私道である。因みにターンパイク(turnpike)とは有料(高速)道路、トール-ロードの事を意味する。
箱根ターンパイク株式会社と東洋ゴム工業はネーミングライツに関して合意し、2007年3月1日から「箱根ターンパイク」から「TOYO TIRES ターンパイク」に名称が変更された。 道路が、ネーミングライツで名称変更されるのは、日本初である。
概要
大観山線(13.782km)と十国線(1.700km)の2路線からなる。カーブ・勾配とも比較的緩やかであるが、下りの場合はエンジンブレーキを使用しないとブレーキが利かなくなるおそれがある。そのため、エンジンブレーキの使用を促す注意書きと、緊急時に衝突して停止するための砂山(緊急避難所)がある。
大観山線の終点付近にはターンパイク・ビューラウンジ(ドライブイン大観山)があり、ここから見る芦ノ湖や富士山の景色は素晴しい。
2006年4月1日現在、普通車の通行料金は大観山線区間が700円、十国線区間が150円であり、全線では850円となる(1km単価53.8円)。両区間は独立しているので、料金は別々に支払う必要がある。なお、料金所付近ではカラーコーンでUターンができないため、利用する意図が無い場合は注意が必要である。また、2007年3月から次世代型料金収受システム(IBAサービス)を導入している。(サービスの利用には多機能型ETC車載器と事前の会員登録が必要)
営業時間は、大観山線が午前5時30分〜午後10時、十国線が平日・午前7時〜午後7時30分、午後6時〜午後9時30分である。夜間は完全封鎖され、通行することができない。
2002年の時点の報告では1日平均通行台数3,196台、営業収支率は98.8%であり支出が収入を微妙に上回る、いわゆる赤字事業路線である。
[編集] 運営主体
もともと東急グループの開発計画に伴って建設されたものであり、長年、東急グループの東急ターンパイクが保有・運営していた。しかし、赤字が続いたこともあり、2004年3月にオーストラリアの投資会社・マッコーリー銀行グループが主体となるインフラストラクチャー・ファンドが設立した箱根ターンパイク株式会社に営業譲渡されて、運営が移管している。
マッコーリー等の買収は、年金基金など内外の長期資産運用を考えている投資家から資金を募り、箱根ターンパイクからの通行料収入や直営ドライブインからの収益を分配する目的がある。インフラとして既に完成しているため、新たに建設するのに比べすぐに収益を分配できる利点がある。
諸外国ではこのようなインフラ(有料道路だけでなく、鉄道・発電所・港湾施設など多岐に渡る)を買収し、ファンドとして組成し資産運用に供する例が多くなっているが、日本では初のケースである。
[編集] 箱根新道との競争
カーブ、勾配とも比較的緩やかで快適なドライブを提供する民間道路であるが、ほぼ同じ起終点(芦ノ湖付近⇔箱根湯本早川付近)区間を並走し競合する箱根新道(中日本高速道路株式会社運営の国道1号バイパス、延長13.8km、普通車250円、km単価18.1円)と比較して非常に高額な通行料金である。そのため、費用対到達時間効果では箱根ターンパイク側には歩がなく、競争にならない。
そこで、箱根ターンパイク側は快適さを重視する観光客へのアピールと、箱根新道および新道までの取付道路、更には真鶴道路が混雑しているときの「更なる迂回路(バイパスのバイパス機能)」としての価値で勝負している。実際にレジャーシーズンの休日等は前述2道路は有料でありながら、慢性的な交通飽和で速達性の確保を提供できない状態が多々発生する。そこで、主に金土休前日の下り(箱根山登り)と日祝の上り(山下り)の利用客獲得のため、電光掲示看板サインや、手製ミニ標識で誘導するなど自社路線への誘導活動を展開している。
[編集] 沿革
1954年(昭和29年)3月5日 - 東京急行電鉄(東急)が道路運送法に基づき渋谷〜江ノ島間の一般自動車道(有料道路)「東急ターンパイク」を免許申請
1955年(昭和30年)2月16日 - 吉浜開発株式会社設立
1955年(昭和30年)8月23日 - 東京急行電鉄が小田原〜箱根間の一般自動車道(有料道路)「箱根ターンパイク」を免許申請
1957年(昭和32年)8月26日 - 東京急行電鉄が藤沢〜小田原間の一般自動車道(有料道路)「湘南ターンパイク」を免許申請
1957年(昭和32年)11月5日 - 吉浜開発株式会社が東急の傘下に入る
1960年(昭和35年)5月12日 - 「箱根ターンパイク」の事業免許を取得。「東急ターンパイク」は「第三京浜道路」と、「湘南ターンパイク」は「西湘バイパス」と競合したため認可されなかった。
1961年(昭和36年)5月10日 - 工事施行認可申請
1961年(昭和36年)10月19日 - 工事施行認可
1962年(昭和37年)10月19日 - 起工式
1963年(昭和38年)5月10日 - 吉浜開発株式会社が箱根ターンパイク株式会社に商号変更。東京急行電鉄から箱根ターンパイクの建設を引き継ぐ。
1965年(昭和40年)7月23日 - 大観山線が開通
1966年(昭和41年)12月1日 - 箱根ターンパイク株式会社が東急ターンパイク株式会社に商号変更
1967年(昭和42年)10月1日 - 十国線開通
1972年(昭和47年)3月31日 - 東急ターンパイク株式会社の経営悪化に伴い東京急行電鉄が自動車道と東急ターンパイク株式会社が所有する土地を62億8853万円で買収
1972年(昭和47年)4月1日 - 東京急行電鉄が東急ターンパイク株式会社に箱根ターンパイクの営業を委託
2004年(平成16年)3月1日 - 東京急行電鉄、経営を箱根ターンパイク株式会社へ約11億円で譲渡
箱根ターンパイク株式会社は、オーストラリアの投資銀行マッコーリー銀行グループと、日本政策投資銀行が出資するジャパンインフラストラクチャーグループ有限会社の出資を受けている。
2004年(平成16年)9月 - 東急ターンパイク株式会社解散
2005年(平成17年)7月30日 - 東京急行電鉄からの譲渡後、改装工事をしていたドライブイン大観山にターンパイク・ビューラウンジが新装オープンした。
2007年(平成19年)3月1日 - ネーミングライツを東洋ゴム工業株式会社が取得した事により、名称が「TOYO TIRES ターンパイク」となる。
[編集] インターチェンジなど
[編集] 大観山線
ターンパイク西湘分岐線分岐(西湘バイパス小田原線)
※小田原厚木道路・箱根新道・箱根口出入口方面からは流入不可。
ターンパイク早川出入口(小田原市街、小田原厚木道路方面)
早川料金所
御所の入駐車場
見晴台駐車場
鍋割駐車場
白銀駐車場
ドライブイン大観山(ターンパイク・ビューラウンジ)
1F フードコート
2F 展望ラウンジ・富士見トイレ(富士山が望める)
大観山出入口(神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線・湯河原方面)
[編集] 十国線
大観山・富士見峠間は神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線となる
富士見峠出入口(神奈川県道75号湯河原箱根仙石原線・芦ノ湖方面)
鞍掛料金所
ターンパイク湯河原峠出入口(静岡県道20号熱海箱根峠線 - 伊豆スカイライン・熱海峠方面)
湯河原パークウェイに接続。
[編集] 関連項目
石橋山の戦い
箱根ターンパイクのルートは、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ湯河原に敗走したルートをほぼ踏襲している。
カーグラフィックTV
自動車の試乗・取材に使用される。また、最近では自動車専門誌やなどのTV番組で当道路が使用されるときは「撮影協力 箱根ターンパイク」とクレジットされている場合が多い。
関東地方の道路一覧
首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。]]>
概要
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。2000年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。
周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。
歴史
1938年、戦災で失われる前の首里城正殿(空手演舞)
守礼門
2001年10月撮影 首里城歓会門を外側から望む
2001年10月撮影 城内より市内を望む首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。 尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。
史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年から1945年までの姿を基にしている。1879年の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。
王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年〜1933年)に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた。太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。
戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。1958年に守礼門が再建されたのを皮切りに円覚寺門など周辺の建築から再建が始まり、1972年の日本復帰後は城の入り口に当たる歓会門と周囲の城郭が再建された。1979年に琉球大学が移転すると1980年代に県および国による首里城再建計画が策定され、本格的な復元がはじまった。1989年、遺構の発掘調査や昭和初期の正殿改修図面・写真資料、古老の記憶などを元に、工芸家や職人を動員した当時の装飾・建築技術の復元作業が行われて正殿他の再建が始まった。1992年には正殿を中心とする建築物群、そこへ至る門の数々と城郭が再建され首里城公園が開園した。現在は、首里城を中心とした一帯が首里城公園として整備・公開がすすめられており、正殿の裏側にあたる城郭や建築物群の再建事業も引き続き行われている。2000年には、首里城跡(しゅりじょうあと)として他のグスクなどとともに「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の名称で世界遺産に登録された。
構造
2001年10月撮影 首里城奉神門
2001年10月撮影 首里城瑞泉門を外側から望む
2001年10月撮影 園比屋武御嶽石門
2006年5月撮影 正殿
2004年7月撮影 城壁首里城は外郭と内郭からなり、御庭(うなー)と呼ばれる広場に面して立つ正殿・北殿・南殿などの建物は内郭に集中している。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門が、外郭には歓会門、久慶門など四つのアーチ門があった。
他の日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に赤瓦が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。また、戦乱のない琉球王朝時代に再建されていることもあり、軍事目的よりも政治の中心地としての役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。
王の居住する中心部は正殿(せいでん)と呼ばれ、別名「唐破風」(からふぁーふー)と呼ばれた。中には一階と二階の両方に御差床(うさすか)という玉座が設けられ、二階の御差床の上には清国皇帝から贈られた扁額が飾られていた。沖縄戦で全て失われたが、康熙帝の贈った「中山世土」の扁額だけが本人の筆跡や落款を再現した上で復元され飾られている。
正殿の前には、家臣らが謁見したり中国からの冊封使を迎え入れたりするための御庭(うなー)と呼ばれる広場が設けられている。それを取り囲むように行政施設である北殿、儀礼などに用いられた南殿、御庭への入り口となる奉神門が建てられている。さらにそれを各種の門・城壁が取り囲む形になっている。これらの構造には、中国の紫禁城との類似性も指摘されている。また南殿は薩摩藩の接待のため使われたので、ここのみ和風の意匠が用いられていた。
首里城では現在も正殿裏側のプライベートな空間に当たる建物の復元がすすんでいる。ただし、本来の木造建築として復元された建物は正殿のみである。正殿は、沖縄本島北部の山から大木を運ぶ「木曳式」などの儀式が行われた後、台湾などからの木材を用いて再建された。他の建物ではコンクリートを用いるなど外観のみの復元といえる。旧来の城壁は一部に残っており、新しい城壁の建設の際に発掘され利用されたため、地表近くに旧来の城壁の姿を見ることができる。これが唯一残ったオリジナルの首里城の遺構である。
宗教的役割
首里城は政治・軍事の拠点であるとともに、琉球有数の聖域でもある。以前は城内には十ヶ所の御嶽があり、また首里城内郭の南側の大きな範囲を「京の内(けおのうち)」と呼ばれる聖域が占めていた。「京の内」は十ヶ所の御嶽のうちの数ヶ所と、鬱蒼とした大木の森や岩があるだけの場所だったが、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城を国家の聖地とさせている重要な場所であった。聞得大君をはじめとする神女たちが京の内で祭祀を行っていたが、その祭祀の内容やはっきりとした京の内内部の様子はいまだによくわかっておらず、現在ここで行われた祭祀の研究に基づき公開に向けての整備工事が進められているが、完全な再現には至らないものと思われる。
敷地内の御嶽等は単なる遺跡ではなく、現在に至るまで信仰の対象であった。琉球大学があった頃には、立ち入りが自由であったため、その構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ(紙銭)が供えられ、主として女性の拝む姿がよく見られたものである。しかし、首里城の復元によって無断の立ち入りが禁止となってしまった。それで、「首里城の建物は復活したが拝所としては破壊された」との声もある。
歴代城主
(第一尚氏)尚巴志--尚忠--尚志達-----中略-----(第二尚氏)尚円--尚宣威--尚真-----中略-----尚育--尚泰